第七回(11/3) ★でっかいどー、北海道


 子供の頃、夏休みやお正月に友達たちが田舎のおじいちゃんやおばあちゃんの家に遊びに行くと聞いた時、とても羨ましかったです。ボクの場合、父方も母方も京都近辺出身で親戚もみんな近くにいるので田舎と呼べるものがなく、友達の田舎に帰省した話を聞くといつもいいなあと思ってました。親には“なんで俺には田舎がないねん。”と文句を言った事もあるのですが大人になったら絶対京都からすごく離れたところに住んでやろうと考えていました。子供の頃からなぜかいつも、旅がしたい、遠くへ行きたい、知らない街へ行ってみたい(歌の歌詞みたいですが)と思ってました。例えば、オートバイや車で走っていて、前方に高い山や大きな海があるとします。するとその山や海の向こうには何があるんだろう?どんな景色なんだろう?どんな人が住んでいるのだろう?と気になって仕方がなく、確かめずにはいられないんです。プチ放浪癖みたいなものがあるんですね。

 小学校高学年の時、すごく仲のよい友達にヤマグチトミヒロ君という親友がいました。彼とはよく休みのたびに自転車でサイクリングに出かけました。京都周辺のいろんなところをふたりで走りました。彼とは同い年ですが、ボクから見てとても大人びて、いろんな雑学の知識が豊富で自転車のことやアウトドアのことなどいろんな事を教わりました。その後オートバイに乗り始めたのも彼が先で、彼はボクにとって友達というより一種の憧れのような存在でした。そんなヤマグチ君と6年生の時、将来大人になったらふたりで自転車で日本1周旅行をしようと約束しました。京都を出発し山陽から四国に渡る。四国を1周してから九州1周、山陰から北陸、東北、そして北海道。最北端の礼文島の岬にふたりで立とうなどと一生懸命話し合いました。でもその後、中学生になると彼とはクラスが別々になり、だんだん会う機会も減り、そのうち全く会うこともなくなり、あの時交わした約束も忘れていってしまいました。

 そしてそれから数年たった21歳の時、すでに料理人として働いていたのですが、その店には3年半ほど勤め、そろそろ別の店に移ろうかなと思っていたときです。なぜか昔約束した自転車で日本1周という夢を思い出しました。今実現させないともう一生できないと思いました。ヤマグチ君はいないけれど、あの時誓った自分自身に対して約束を果そうと考えたんです。そう思いこむとさっそく実現に向けて動き出しました。長距離用の自転車を購入し、体も少し鍛え直し、仕事も辞め、準備を整えました。そんなに貯金はなかったけれど、お金がなくなったらアルバイトでもすればいいと考えていました。そして暖かく気候も良くなってきた5月のはじめ、大阪から自転車で日本1周の旅に出発しました。

 昔、ヤマグチ君と考えた計画通りのコースを行き、四国、九州と進みました。このあたりで梅雨入りし、雨の日が多くなりその影響でかなり予定より遅れだしたのですが、フェリーなども使い7月の初め頃には北海道に足を踏み入れました。北海道に入った瞬間、今まで自分が知ってる日本とは全然違う土地だと強く感じました。うまく表現できないのですが、空気とか景色とか風土とかです。九州の阿蘇のあたりを走った時もすごい景色だなあと思いましたが、比べものにならないくらい北海道はすごいと感じました。生まれて初めて地平線というものを見ましたし、1時間くらい走っても1人の人とも出会わなかったり、ちょっと山の方にはいるとキタキツネや鹿と出会ったり、このあたりは熊が出るから注意しなさいと地元の方に教えていただいたり、手つかずの大自然がいっぱいあり、見るものすべてが新鮮でした。

 結局日本最北端の礼文島には行かなかったのですが、本土内の最北端である宗谷岬に到達し、オホーツク海沿いに南下し網走から内陸の方に入り、恐竜クッシーがいると言われる屈斜路湖に向かいました。屈斜路湖が一望できるという美幌峠を目指して長い坂を上り、そしてのぼりきって眺めた屈斜路湖はホントに絶景でした。丸く大きな湖にぷっくらと中島が浮かんでいてキラキラと日を受けて輝く湖面は素晴らしかったです。その後、屈斜路湖側に下って湖のそばをを通り、次に摩周湖に向かいました。摩周湖は大昔は火山で、火口が湖になっているのでやはり長い坂を上らないと湖には着けません。夏の陽ざしを浴びながらゼーゼー言いながらペダルをこぎ、頂上の展望所に辿り着き、摩周湖を眺めたときの感動は今でも忘れられません。この世のものとは思えない風景で、まさに絵に描いたような美しさでした。静まりかえった深い青色の湖面。屈斜路湖とは違い、湖のそばへは立ち入り禁止で展望所から数百メートル下の湖を眺めることができるだけなので、余計に神秘的で神々しく感じられるのでしょう。屈斜路湖も素晴らしかったのですが、やはりどちらかというと摩周湖に軍配を上げてしまいます。

 摩周湖に感動し、この土地でしばらく暮らしてみたいと思ったボクは、摩周湖と屈斜路湖のだいたい中間地点にある川湯温泉という温泉街でアルバイトをしようと考えました。夏休みシーズンで必ず働き口があると思ったし、旅行の資金もそろそろ底をつきかけていたのです。川湯温泉は旅館やホテルが20数軒ある小さな温泉街ですが、その旅館やホテルにかたっぱしから「アルバイトはいりませんか?コックなので料理は作れます。」と聞いてまわりました。 すこし話がそれるのですが、ボクは世界中どこでも暮らしていける自信があります。料理が作れるからです。日本料理、フランス料理、中華料理などいろいろありますが、料理の基本というのはそんなに変わりません。魚をさばくのも、肉をおろすのも、野菜を切るのも。世界中どんな街に行っても飲食店はありますし、外食産業というのは仕事がキツイわりにそんなに儲からないので慢性的に人手不足ですから。仕事の楽なお店だとか、給料のいいお店だとか選り好みさえしなければ料理を作る仕事は見つけられるはずです。大阪から熊本に引っ越してきた15年前も、熊本にはまったく知り合いもコネもなかったですが全然不安はありませんでした。現にどうにかなりましたから。なんらかの事情で世界のどこか遠い街で暮らさなければいけなくなっても、嫁さん1人くらい喰わしていけると思っています。

 話を元に戻して、10何軒聞いてまわって全部断られましたが、次にたずねたこじんまりした旅館ではちょうど厨房の人が1人辞めたそうで人手が足りないということで雇ってもらえることになりました。旅館の人たちはみんないい人ばかりでした。特に女将さんにはなんだかホントの息子のようにかわいがって頂きました。ご主人に先立たれたそうで、それに少し目がご不自由だということでしたが、すごくたくましく強くそして優しい方でした。今でも年賀状のやりとりをしていますが、ボクにとっての“北海道のお母さん” です。旅館での生活は楽しかったです。久しぶりに包丁を握ったのも嬉しかったですし、刺身の切り方を教わったり、野菜の煮物の作り方を教わったり、そして何より朝、昼、晩3食腹一杯ご飯が食べられるのが幸せでした。おそらく今の3倍以上の食事の量を軽く平らげていましたから。暇な時間帯にはパートのおばさんの子供と遊んだり、おばさんのスクーターを借りて摩周湖を眺めにいったり。仕事が終わると毎日のように男性従業員の方に飲みに連れて行ってもらったり、同じ旅館でバイトしていた地元の女の子とちょっといい感じになったり、たまの休みをもらった日には知床半島までドライブに連れて行ってもらったりと、旅館でお世話になった1ヶ月半はあっという間に過ぎました。

 北海道の短い夏も終わりとうとう旅館を旅立つときが来ました。しばらく乗ってなかった自転車は、温泉地特有の硫黄のせいでいたるところにサビがついてしまい洗って整備し直さなければなりませんでした。9月のはじめ、旅館のみなさんに別れを告げ再び出発しました。その後は、オートバイや自転車のツーリストのメッカである中標津にある“地球が丸く見える開陽台”に立ち寄り、野付半島から根室の納沙布岬、霧多布、釧路、松山千春の実家がある足寄、帯広から南下して昔流行った幸福駅、さらに南下して襟裳岬、西へ進み競走馬の故郷の日高に立ち寄り、苫小牧からフェリーに乗り北海道を離れました。本州に渡ってからは東北をとおり東京に入りました。当時東京には仲の良い友達が暮らしていて、1週間ほど居候させてもらいながら東京や横浜の見物をしました。東京を出てからは信州、木曽を走り10月の末には無事に大阪にたどり着きました。

 今回のお話、北海道のことを中心に書きましたが、日本中いろんなところで、その地元の人や同じように自転車やオートバイで旅をしている人との出会いがあり、たくさんお世話になり、困ったときに助けていただきました。この旅行は自分にとってかけがえのない経験となりました。今でも毎年夏が来るたびに、あのひと夏を過ごした北海道での記憶が鮮明に甦ってきます。

 アルバイトをした旅館を旅立つ朝、女将さんが「今度は真冬に遊びにいらっしゃい。樹氷や流氷が見れる頃の北海道も素敵だから。」 ボク「はい。今度は真冬に来ます!。」  この約束は未だ果たされていません……。

シェフ

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